10年程前、自分が手術を受けることになった時から、
母が癌やうつ病を患い、何度も入院を繰り返すようになった時から、
世間の当たり前と思われているあらゆる観念が、
「そうではないかもしれない・・・」と感じるようになっていった。
もともと「社会の当たり前」に、
モヤっとした違和感があったものの、それが確信へと変わっていった。
まずは「食」
それまでの自分の食生活を振り返ると、
仕事に殆どの意識と時間を取られ、日常的な食事は出来合いを買うか、外食か9割。
母はと言えば、
自炊ではあるものの、調味料から食材まで「安い・便利」に疑問なく飛びつく。
そして、食する量も多かった。
人の体は人が考えて生み出すにはその仕組みは出来過ぎている。
想像を超えた働きによるものによって、緻密に創造されていると感じる。
だから、
老化は免れないものの、
そもそも生涯を安全に添い遂げる可能性がない物(体)を
生まれる時に与えられる(選んでくる)とは到底考え難い。
それでは、病を前提に生まれてくることになる。
それは、かなり勇敢なことだ。
(勿論、人により人生の課題設定は様々。肉体的観点から課題克服のシナリオを設定している人もいるだろう。)
そう考えた時、
自分は今まで自分の体に何を与え、何をしてきたのかに想いを馳せる・・。
「時間がない・仕事が忙しい」を根拠に「便利」・「安い」・「手軽」という食事を。
「お洒落な物が好き」「美味しい物が好き」と言って食事の多くを外食に頼る。
その中身がどんな物で作られているのか、
その調味料や食材の源は何なのか、
どういう意図で作られた物なのか、
どんな道のりを経て私の元までやってきたのか、
そんなことは一切考えず、
出来上がったその結果だけを性善説の元にただ体の中に入れていた。
私も含め、全日本国民が生まれた時から当たり前に入信している
「資本主義」・「お金という宗教」
その本質が、勿論食べ物にも表現されている事に目を向けようともせず。
私の体は私が食したもので出来ている。
私達が食する時、
食材その物の在り様、
それを生み出した意図、
美しきも悪しきも含めたそれを生み出した人々の想いや願い、
その方々の労力(エネルギー)、
ロボットが作ったのならその無機質さ・・・・・
そういった物も一緒に自分の中に取り込んでいる。
そう考えると、
私や母が病気になったのは、自然なこと。
自分に対してやる事をやったので、そのままそれが形になって現れた。
そういうことなのだろう。
「自分の体を愛でなかった、自分を大切にしていないよ」
そう自分が自分の体を使って伝えてきたのだろう。
そう思うと、
病気に対して「気付くチャンスをくれてありがとう」
自分に対して「よく言ってくれたね。へーこういう伝え方ってあるんだね。ごめんね」
と思えた。